長門有希の雪球


 雨が降れば傘屋は儲かるし農家は助かると言うが俺には不快感しか及ぼさない天気の中のハイキングに疲れた俺は、一家に一台あると便利かもしれないくらい高性能な目覚ましであるハルヒによって睡眠を妨害されて部室で睡眠を取っていた。
 雨が多い季節になってきて疲れがたまっていた俺は長門しかいない部室に安らぎを覚えて睡魔に負けた。
 それは長門が何か例の呪文を唱えたのかも知れないし、そうでないかもしれない。ただ、俺も長門もいつもとは何かが違ったんだ。


 冒頭の通りに雨が降る中のハイキングに疲れた俺は昼休みになると部室で睡眠をとることにした。部室まで逃げてしまえば人間目覚まし、いや、目覚まし人間であるハルヒから逃げられるからだ。

「よう」

 いつものポジションに座る長門はいつも通り頷くという挨拶で返してくる。いつも通り、という響きが俺の心に平穏を齎せてくれる。長門の無表情ってのはなんでこんなに安らぐんだろうね。

「昼休みが終わりそうになったら起こしてくれないか?」
「了解した」
「すまん、ありがとう」

 疲れを取るべくサラリーマンの気分でイスに座り机にうつぶせになると急速に眠りに落ちていった。
 布団で寝る6時間よりも机でこうして寝る1時間の方が疲れが取れる気がするのはなんでだろうね。








 心地のよい体の揺れを感じて目を覚ますと、長門が無言で俺の体を揺すっていた。
「起こしてくれたのか?」
「そう」

 長門に感謝の言葉を告げると時計を見る。
「げっ」

 もうすでに授業が始まっている時間だった。
 いつも通りの無表情であせりを微塵も感じられない長門の手を引くと部室を飛び出した。

「じゃあ長門、俺の教室はこっちだから」
「……」

 何故手を離してくれない? 接着剤でもついてたのか?
「……」
 言葉にしてくれないとその何かを訴える様な瞳が何を言いたいのか俺にはわからんぞ。

「一人で教室へ入ることは推奨できない」
 !? なにか異常事態でも起きてるのか?
「ある種の異常事態。あなたの生命に危機はない」
 詳しく説明してくれ。
「その時間はない。今はまだ教師が教室についていない。今のうちにあなたの教室へ」
 手をつないだままか?
「そう」

 無垢を絵に描いたような瞳に俺は何も言えなくなって成すがままに教室へと向かう。もちろん手はつないだままで。




 ガラガラ、という古い扉が開く音と共に教室へ入ると新米の英語教師はまだ来ていないようだったがクラスの視線を独り占め、いや二人占めした俺たちにまっさきに言葉を発したのはハルヒだった。
 ドス黒いオーラをだしながらこっちへ向いてハルヒは言った。

「昼休みにみないと思ったら何をしてたのかしら?怒らないから言ってごらんなさい」
 すでに怒っているだろう、とつっこむ前にクラスの人たちの異様な雰囲気を察知してしまった。
「部室で寝てただけだ」
「へぇ、誰と?」
「誰とって、寝るときはみんな一人だろう?」

 やれやれ、と手を広げようとして…

「長門、そろそろ手を放してもいいか?」
「かまわない」

「へぇ、あんたたちそんな関係だったとはね」
 言ってることの意味がわからん。



ドガっ!!


「トイレ行って鏡でもみてきなさい!」




「いててて、ハルヒの野郎本気で殴りやがって」
 鏡を見ると見事なアザが右の頬にできていた。

「あれ…」
 我ながら情けない顔をしているものだ。その顔の右頬の、ハルヒが殴った下あたりに赤い口紅のようなものがついている。
「なんだこれは…?」
 最初は血がでたのかとも思ったのだがどうやらそうではないらしい。
 滲んで見にくいものの、よくみると唇の形をしている。
「まさか…」
 俺が寝ていたときには長門しかいなかった。その前には何もついていなかったから長門なら何かわかるかもしれない。
 トイレのドアを開けると都合よく長門が待っていてくれた。

「長門、どうやらハルヒに殴られたのは頬についていたキスマークらしきものが原因だと思うが何か知らないか?」
「……」
 そういえば、部室をでたとき長門は少し挙動がおかしかったな。
「違ってたらすまん、でも聞かせてくれ。もしかしたら、長門がつけたのか?」

「…そう」
 一泊おいて肯定らしき挙動をした長門は少し申し訳なさそうな瞳をこちらに向けている。
「いや、…キスマーク、なのか?」
「そう」
 俺は寝ている間に長門にキスをされていたのか。なんで起きてなかったんだ。
 未来を知っていたらきっと長門の唇の感触を楽しむべく寝たフリをしていただろう。

「それはわかった。だがな、ハルヒに見られたらこうなることくらい予想がつきそうなものだろう?
 どうして言わなかったんだ?というか、何故口紅をもっていたんだ?」

「朝比奈みくるの友人による、悪戯。わたしは命令を遂行しただけ」
 鶴屋さんか。あのお人にかかると全てが笑い話で済まされそうだが、ハルヒも笑い話で済ませてくれるのだろうか。
「あのな長門。嫌だったら嫌と言っていいんだぞ?」
 いくら鶴屋さんにほのめかされたからと言って他の人にキスをする長門を想像すると無性にあばれたくなってしまう。
 俺って結構うつわの小さい人間だったんだと自覚させられる嫌な瞬間だな。
「それと、」
 続く言葉は長門の突き刺すような視線によってさえぎられた。
 少しすねたような表情はもちろん俺にしかわからないだろう。


「あなただから」


 その続きは言わずに長門はぷいと後ろを向き、自分の教室へ帰ってしまった。
 『あなただから』。続く言葉を想像して、俺は…