長門有希の口紅


 黄昏という言葉が似合う時間帯に俺は捨て猫を拾った。いや、捨て猫に拾わされた。
 それも子供が神社の裏でペットを飼うように、あの家で。咄嗟にハルヒの悪戯かとも思ったが、冷静に考えてハルヒの『力』のせいだと考えた。





 放課後に部室によるとそこには本日休業の張り紙がしてあって、とりあえず部室に入ろうとするもドアには鍵が掛かっていて朝比奈さん製のお茶が飲めないことが確定して落ち込んでいると、ドアの隙間にしおりが挟まっているのを確認した。
 なんだこれは。
 つまんで引っ張るとスルリと俺の手に落ちてきたそのしおりは3枚あり、なにやら嫌な予感を俺にくれた。
『このしおりを一枚は常に持ち歩くこと一枚は部屋に置くこと』
 一枚は持ち歩け?もう一枚は部屋?俺の部屋か?もう一枚は?
 ワープロで書かれたような字に問いかけるももちろん返事はない。こんなしおりに伝言を頼むと言うことは長門自身とはコンタクトの取れない状態なんだろう。
 ならば俺は長門の命令を遂行するためにも急いで帰宅するとしようじゃないか。今度は何が起こったんだ。


 下駄箱を開けるとそこには2通の差出人とあて先が共に無記名の手紙があった。踵を返してトイレの個室へ駆け込む。手紙がくるたびにお世話になってるこの個室で大きいほうの便箋を開ける。キョンくんへと書かれたその便箋はメイドイン朝比奈であることは明白だった。
 また未来がらみか。

『長門さんがあなたに預けたしおりは、あなたの存在感を限界までうすめるフィールドを貼ってくれています。
 これは、その時代の人には少し難しい概念ですが、あなたが学校へ行かなくても、家に帰らなくても誰も不審に思わないフィールドだと理解してください。
 この時代のわたしは何にもできませんが、長門さんを救ってあげてください』

 ファンシーな手紙には筆者の内面がでてくるような可愛らしい文字でそのようなことが書いてあった。

 やはり長門がピンチなのか。
 そしてもう片方の手紙を開ける。

『鍵はあいている。ドアの中にもう一つの鍵がある』

 なんだこりゃ。長門が書いたであろう文字には理解できない日本語が書いてあった。また謎解きか。俺の頭の悪さはこの学校でも上のほうなんだがな。
 手紙を丁寧に学生鞄にしまいこみ、最初に長門から授かった命令を遂行すべく駆け抜ける。

 家に帰って机の上にでもしおりを片方置いたら急いで長門の部屋に行ってみよう。たいした危機感もなく駆け出した俺を待っていたのは、家の近くの曲がり角を曲がったあたりにしゃがんでいたそいつだった。

「長門!?」
 急ブレーキを掛けてしゃがみ込んでいる少女をよく見る。明らかに長門だ。何故こんなところに?ピンチじゃないのか?WHY?
「何をしているんだ」
 長門は堤防が決壊しそうな瞳をこちらに向けて言った。
「あなたは知ってる。でも、それ以外何も思い出せない」
 一瞬思考が止まる。ピンチとはこのことか?俺は辺りを見渡してみる。誰もいない。
「ハルヒか?」
 そう尋ねた俺のわずかな希望は長門首を振る動作に打ち砕かれた。
「ハルヒのことは知ってるか?」
 否定。
「俺のことは知ってるのか?」
 肯定。
「自分が誰だかわかるか?」
 肯定。
「じゃあお前は誰だか言ってみてくれ」
 一拍置いて、
「長門有希。北校生」
 と言った。

 ヒューマノイドなんたらではない長門は迷子の少女のように不安気な表情を全開にしている。
「他に知ってる人はいないのか?」
 否定。

「もう一度だけ聞く。涼宮ハルヒを知らないか?古泉一樹でもいい。朝比奈みくるでもいい。誰も知らないか?」
 やや間があって、明確に否定のしぐさをする。

 まさか長門が記憶を無くしているとは。これは近日稀に見る危機だろう。どうすればいいかわからずに夕日に照らされた長門と向き合う。
「あなたと会えた。よかった」
 心底安堵したような表情を見せる長門の不意の一言に俺はきっと赤面していただろう。それほどの破壊力を持つ表情と言葉だった。
 普段の長門からは想像できないコンボに俺は打ちのめされて、俺が知っている昨日までの長門を思い出した。
「そうだ、家に行かないと」
 このしおりを部屋においてから、長門を家まで送り届けてやろう。これからの事はそれから考えよう。

「もう行くの?」
 いつだったかのように俺の服の裾を摘んだ長門は今にも泣きそうな表情で俺を見上げる。
「そうだな、行くか」
 俺は長門の頭を撫でて、白く震えた小さな手を握り、何カラットあるかわからないその瞳を見つめながら言った。
「お前を連れてな」


 あの世界で、俺が長門に入部届けを返したときのあの表情が思い出される。こっちの世界で会えるとは思えなかったが、あの長門に会えたのならば俺は長門に悲しい顔をさせてはならない。あんな表情させるのはあのときだけでいい。

 少し強めに手を握り、長門をつれて家に帰った。







 部屋にしおりを置いてすぐに長門の家に向かう。少しの時間も惜しかったので愛用の自転車で二人乗りだ。
「そういえば長門、家の鍵は持ってるのか?」
「ない」
 やっぱりな。ってことは手紙に書いてあった通り、鍵は開いてるんだろう。
 長門を後ろに座るように促してから出発をする。この長門は万能宇宙人じゃないからか、背中を握る手の感触に神経が集中してしまう。何度目になるのか、長門の部屋に行くのもなれちまった。自分の家から長門の家までの風景がもう見慣れていて新鮮味がない。だけど背中に掛かる圧力は冬の、それも別世界で一度味わったきりの感触なので、このままずっと自転車を漕いでいたい衝動に駆られる。

 何を考えているんだ俺は。朝比奈さんからの手紙を思い出せ。『長門さんを救ってあげてください』って書いてあった。つまりそれは、今長門がピンチだってことじゃないか。一刻も早く長門の部屋へ行って、ただの文学少女であるほうの長門を落ち着かせなければ。

 重力や引力などの物理法則を捻じ曲げられない長門が落ちないような速度を保って、且つ最大限のスピードで長門の部屋へ滑り込んだ。
 長門にマンションの暗証番号を押させて7階へ。長門は少し落ち着いた様子は見せるものの、何が起こっているのかわかっていない様子だ。服の裾を握る手がそれを物語っている。

 長門主導で部屋に入り、俺は殺風景なリビングで腰を下ろす。次いで、長門がお茶を入れて入場する。
「で、だ。とりあえず聞いておくことにしよう。もしかしたら俺と長門が初めてあったのは、図書館か?」
「今度は、覚えてた」
 やっぱりか。この長門は、文芸部室で一人でいたあの長門と同一人物であるらしい。
 いろいろ言いたいことはあった。すまん、とかごめん、しか思いつかないけど、あの後、あの世界がどうなったのか気になってはいた。
 だけど驚愕や焦りが先行してそんな余裕はない。

「こっちの世界が変だとは思わなかったか?」
 長門はミクロン単位で頷いて、
「少し」
 と言い、
「何かはわからないけど、違和感が」
 と続けた。

 無口な上に小さくなった声を拾い集めてコンパイルすると―――


 夢を見た。もう一人の私が何かを問いかけてくる夢。期限は3日といい、期限までに鍵を使ってドアを開けろといった。
 そこで目が覚めたけど、部屋がいつもと違う気がした。物が増えてる。学校へ行くと、朝倉さんがいないことに気付いた。休みかもしれないと思い、いつも通り授業を受けていると、違和感を感じた。
 帰りに、町中に違和感が広がっていく感覚に襲われてどうしようもなく不安になったときに現れたのが
「あなただった」

 長門の顔が俺のほうを向き、2ミクロンほど顔の筋肉を笑顔の方向へ動かしたのちに言った。
「あなたは、あのときのあなただった。会いたかった」

 ああ、俺もお前にはもう一度会いたかったさ。できれば新しい転校生として、長門有希の妹としてでも北校に来て欲しかったな。
 こんな形では会いたくなかった。だってそうだろ?
 長門曰く、期限は3日なんだぜ。

 どれだけ知恵を絞ってもそれ以上の結論がでてこない。長門の夢にでてきた長門がこっちの世界の長門なのは間違いないだろう。
 だとしたらその意図は?朝比奈さん曰く、長門はピンチじゃなかったのか?だめだ。俺の頭ではこれ以上考え付かない。

「そろそろ帰るよ」
 といって立ち上がった俺に長門は今にも溢れんばかりの涙を瞳いっぱいに浮かべて言った。
「この世界の違和感は、あなたといるときには解消されている。あなたがいなくなってしまったら…」
 軽いデジャヴを感じつつ、もちろん俺もこのままこの部屋にいたい、むしろこの部屋でくらしたい青少年的願望と、女の一人暮らしの部屋にいつまでもいるわけにはいかない、という紳士的考えを葛藤させるも、青年期の俺にはそんな戦いは一人で100万の武装された兵隊と戦うくらいに無意味なもので、
「そうだな、長門もくるか?鞄も何もかも家だ。このままお前の家にいるにせよ、荷物はとりに行かなければならん」
 と、取り付くろって見せたあたりは自分の機転をほめてあげたい。

 着いてくるといって聞かない長門をつれて家に帰る。家の前で長門に待っててもらい、学生鞄を取ってくるミッションをスタートさせた。
 このミッションの最大の難問は、親か妹に見つかったときに、なんて言い訳をして外出すればいいのか皆目検討も着かないところだ。だが、それは徒労に終わる事を知った。

「あれ〜キョンくん部屋にいなかったぁ?」
 玄関を開けてすぐに妹に見つかった。さっきまで俺の部屋で俺と話をしていたという。
 急いで部屋に行くと、しおりが立っていた。
「こいつか」
 このメイドイン長門のしおりをここにおいて置けば俺がいなくても誰も何も感じないと言うことか。朝比奈さんの手紙に書いてあった効能そのままだな。

 ならば2〜3日家を空けても誰も気付かないだろう。いや、気付かれないのも少し悲しい気もするが。
 当初の目標だった学生鞄をつかみ、着替えをワンセットもって部屋をでる。その勢いで家もでる。

「まったか?」
 無言で首を振る長門を再び自転車の後ろに乗せて走り出す。


長門の部屋に着くと、長門は料理を振舞ってくれた。この長門は普段レトルトばっかりで過ごしているはずだから料理はあまりうまくないと思っていたが、あまかった。こんなにおいしい料理は2度と食べられないんじゃないかというほどの腕前で、きっと誰が食べても満足させられるであろうテーブルいっぱい彩られた中華料理を腹いっぱいに平らげたあとで、
「お風呂、先はいる?」
 ろ言った長門に、
「お風呂は借りたい、でも長門が先に入ってくれ」
 と、俺が客人であることと部屋の主人が先に入るべきことを説得して先に入ってもらった。

 長門がでて、次いで俺も入る。そう言えば部室の『本日休業』張り紙を見たあたりからずっと緊張してた気がする。
 一日の疲れがブワっと飛んでいく感覚に襲われた。この感覚は嫌じゃあないな。むしろ心地がよく、歓迎すべき感覚だ。

 部屋をでると長門が布団を敷いて待っていた。しかし、よく見ると布団は一組しか敷いてない。悪くはないはずの目をこすってみても一組だけだ。
「布団は一組しかなかった」
「そうか、一人暮らしだもんな。俺はそこらへんで転がって寝るから長門は奥の部屋でぐっすり寝てくれ」
「だめ」
「なぜだ?」
「あなたが入浴しているとき、少し離れただけなのに大きな不安を感じた。あなたが隣の部屋に離れて寝ているだけでわたしは不安を感じる」
 だから、と長門は続ける。
「だから、一緒に寝て欲しい」
 そんなことを言っても年頃の男と女が一つの布団で寝るのは非常にまずいのでは。
「いや?」
 上目使いで、しかも涙目で言われると俺には断るすべはなくなる。
 谷口曰く、Aマイナーの文学系美少女にそんな仕草をされることに俺はなれていないんだ。
 条件としてお互いが反対を向いて寝ることを提示し、何とか納得させた。

 俺にもわかってしまうんだからしょうがない。自分以外はみんなこの世界とは違う記憶を所有しているからみんなが別人だ。
 自分だけ世界から切り離されたような錯覚に陥ってしまう。教室で朝倉を見て錯乱した俺のようにな。

 とりあえず明日、学校へ行ったら部室へ行ってみよう。夢の中でこっちの長門は鍵という言葉を使った。それがあのときを模しての事ならば部室に何かヒントがあるはずだ。パソコンか、本棚か。ハルヒにはできるだけ見つからないようにしないとな。
 この、俺から離れなくなっちまった長門といるところを見られたらうるさそうだ。
 起きたら全てが夢であることを願い、そしてすぐにそれじゃあこの長門がなかったことになってしまうなどと考えながら俺は眠りに落ちた。
 眠りに落ちるまでには、長門の吐息が背中に掛かることなど様々な妨害にあって時間がかかったことは言うまでもないが。








 眠りに着いたのはいつだったか、長門の吐息が気になって眠りにつけなかった昨晩の記憶は曖昧なまま、眩い朝日によって脳は覚醒した。

「!!?」
 目を開けるとそこは一面の有希景色だった。川端先生もビックリするような長門の寝顔がドアップで映し出されている。
 さっと距離を取り、少し落ち着いた心でもう一度長門をみる。


 長門は安らかな寝顔で、白い顔は神秘的にさえみえる。こうして見ると谷口の言うAマイナーじゃあ評価は低すぎる気がしてくるな。
 長門の頬をつついてみる。安らかな気持ちが俺にまで伝わってきて思わず顔がにやけてしまう。突く指が止まらない。

 長門の頬を突く指が引っ張ったり、頭を撫でたりし始めたころ長門は一瞬顔をしかめて、しまったと思う前に目をパチリと開き、少し驚いた顔をしてから辺りを見回し、布団の中に顔を引っ込めてしまった。
 なんて微笑ましい風景なんだ。宇宙人の長門ならば俺が頬を突く前に目を覚ますだろう。もしくは、俺の前では眠りにつくことさえしないかもしれない。
 宇宙人のほうの長門を思い出し、この新婚さんモードが3日、残り2日限定であることを思い出してしまった。

 少し悲しい気持ちになったところで長門は少し赤らんだ顔を布団から少しだけ出して、
「おはよう」
 と言った。
「おはよう」




 さて昨日一晩考えた結果、本日は普通に学校へ行ってみようと思う。
 当初は部室に忍び込んでキーを捜そうとも思ったのだが、この長門にこっちの世界を見せてやりたいと思った。本物のハルヒや朝比奈さん、古泉も一応含めてみせてやりたいと思った。
 長門製の朝食を食べながら俺は長門にその旨を伝えた。長門は戸惑いながらも、
「何かあったら、助けてくれる?」
 と言い、
「できることならな」
 と歯切れの悪い俺の返事を聞いてから了承した。

 俺にしては奇跡的に目覚ましがなる前に目を覚ました副作用で、この豪勢な朝食を食べ終わってもかなり時間が余ってしまう。

「聞きたいことがあるだ。長門にとってはもしかしたらつらいことかもしれない。嫌だったら答えないでもいいからな」
「なに?」
「長門が今までいた世界のことは覚えているか?」
 頷いて肯定。
「なら、俺はパソコンのボタンを押したあとはどうなったんだ?」
「あなたは消えてしまった。気がついたら私は一人で部室にいた。きっと夢だと思っていたけど、昨日あなたに会えた。夢ではなかった」
 だから最初にハルヒたちを知らないと言ったのか。
「小説の中に入り込んだような3日間は…」
 長門は少し悲しい表情をしている。俺はその続きを話させるべきではないと感じて割り込んだ。
「あのときは入部してやれないで悪かったな。こっちの世界での文芸部を見てくといい」
 言ったとおり、文芸部の枠を超えているけどな、と言うと長門はわずかに微笑んだ。

「そろそろ学校へ行こう」


 長門と学校へ行くのは初めてだったろうか、奇跡的にこういったときには必ず顔を合わせるハルヒや朝比奈さん、国木田と谷口という爆弾メンバーは出現しなかった。変わりに村人1号として爽やかな青年が声を掛けてきた。
「おはようございます」
「おう。その様子だとお前ももうすでに知ってるようだな」
「確信はありませんでしたが、昨日の長門さんの様子からうすうすは。それより今時間を取れませんか?できれば二人きりで」
 そいつはむりな相談だ。長門込みなら聞いてやってもいいがな。いいだろ?長門。
 長門が肯定すると同時に古泉は手を上げ、タクシーが止まる。
「あなたならそう答えると思いましたよ。では、部室にでも行きましょうか」
 例によって運転手は荒川さんだった。




 部室に着いて、俺が一通り古泉に話をすると古泉は、
「なるほど。では長門さんは、失礼しました。宇宙人の長門さんはこちらの長門さんに何をさせたいのでしょうか」
 知らん。知るわけも知るすべもない。
「僕の推測ですが、長門さんにまたエラーが溜まってきた、その解消を行っている間に代替処置としてこちらの長門さんを派遣したのではないでしょうか」
 なるほど。だから3日間という期限付きなのか。
「もう一つ推測できます。これは僕の口から言えることではないのですが、こちらの長門さんに何かをして貰いたいという期待を込めての代替処置ではないでしょうか」
 何か、とはなんだ。
「ですからそれは僕の口からは言えません。後者だった場合長門さんから何かアクションがあるはずです。
 いずれにせよ今は情報が少ないためそれ以上の推測はできません」


 多少の雑談を経て古泉は教室へ帰っていった。俺がこの部屋ですることがある、というと長門は
「あなたがいるなら、わたしもいる」
 と、宇宙人の長門を思わせるような視線を浴びせてきた。


 ピポっ

 バッと俺は振り返り、パソコンを向く。途中長門が蒼白な顔をしているのが見て取れた。
「また」
 また、なんだ?今にも崩れ落ちそうな長門をしっかりとささえながら問う。
「また、行ってしまうの?」
 俺はどこにも行かない。ここにいる。
 そう言ってパソコンへ向かう。



 YUKI.N>あなたがこの画面を見ているとき、わたしはわたしではないだろう。
      わたしはこのプログラムを設置した3日後に回帰する。

 YUKI.N>その際に鍵を設置した。あなたが鍵を見つけられなければ、わたしという個体は消滅して、そこにはわたしではないわたしが残るだろう。
      鍵を見つけたなら、鍵を行使したなら私は回帰する。その場合、代替されたわたしは消滅する。


 YUKI.N>あなたは、あなたが思う行動を

「長門っ!!」


 人間の長門か宇宙人の長門かを選べということか?ふざけんじゃねえ。俺は今、初めて長門に対して怒りをいだいている。どっちも長門なんだ。前回の選択には、世界そのものが違ったという前提条件からこっちの世界への回帰を選択したが、今は同じ世界で、完全にどちらかの長門を選ぶ選択になっている。
 そんなもの選べるわけがない。

 またこの長門に悲しい顔をさせるのか?あの長門に悲しい顔をさせるのか?他に方法はないのか?

「くそっ」

 俺は隣で蒼白な顔をしている長門に向き合って言った。
「すまない、一時間ここで待っててくれ。教室へ行って授業を受けていてもかまわない。俺にはやらなきゃならないことができてしまった」
「だめ、行かないで」
 長門は泣きそうな顔をしている。文芸部室、パソコン、俺と長門。長門は俺が消失するもんだと考えているかもしれない。
「だいじょうぶだ。俺はきっと帰ってくる。俺とお前が一緒に入れるためにしなければならないことができたんだ」
 長門は少し戸惑ってから、意を決したように、
「絶対?」
 と聞き返した後、俺の返事を聞く前に
「あなたを信じる」
 確かにそういった。

「任せておけ」



 授業中だというのに廊下を駆け抜ける。頭の中はパニックに陥っている。
 長門が何を考えてこのプログラムを作ったのか。何故代替処置にこの長門を召還したのか。なぜ二者択一なのか。俺には決められた選択肢の中から選ぶことしかできないのか。
 どっちかが消えていくのを黙って見過ごせというのか。

 そんなこと俺にはできるわけがない。いざとなったらハルヒをたきつけてでも長門を二人とも…
「お話があります」
 古泉、いいところにいた。ハルヒは教室か?
「おそらくは。どうしました?」
 今までのいきさつを説明する。そして、ハルヒをたきつけようとしていることも。
「あなたがジョン・スミスであるということを話すのですか?」
 そこは最終手段だ、うまくごまかそうと思う。
「ですが、最終的に長門さんは必ず一人は戻ってくるのですよ?涼宮さんにとってはどちらの長門さんが残る結果になっても意味のないことです。
 今まで通り長門さんは一人なわけですから。どうやってたきつけるのです?」
「知るか!当たって砕けろだ」
「下手に言い訳をしたら閉鎖空間では済まなくなりそうですね。ですが、涼宮さんより先に会う人がいるんじゃないですか?」
「あの人か?」
「あの人です」

 ハルヒをたきつけるのは最終手段だ。期限はあと2日ある。ならば期限がくるまではできることをやってしまおう。

 再び廊下を走り出す。もしかしたら突破口になるかも知れない。少しだけ希望が見えたことにより景色も変わって見える。
「二人とも、消えるなんて許さないからな」

 俺らしくない事をつぶやいてやってきたのは、俺よりも一つ年上の方々が住まう教室の一つ。だが今は授業中だ、どうする。
 時計を見ると、授業はまだ30分ほど残っている。しかし長門を文芸部室においてきたままだ。…ええい!

  ガラガラっ

 なっ!?

 俺がドアを開けようと一歩踏み出した瞬間あの人が出てきた。
「お待たせしました」
 お待たせも何も、待ち合わせの類をした記憶はないんだがな。
「お久しぶりです、喜緑さん。ちょっとお願いがあるんですが…」
「長門さんの事でしたら存じてます。もちろん協力させていただきます」
 と、やわらかく微笑んで言った。
「上からも許可がでています。これから長門さんの作成したプログラムの解析を行いますのでついてきてください」

 長門が、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースが作ったプログラムを崩すには同じ対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースの力が必要だと思った勘はあたりそうだ。


 部室に着くと、中で待機していた長門は俺を見て、喜緑さんを見て、不安そうな眼差しでもう一度俺を見る。
「大丈夫だ」
 そう言うと長門は少しだけ安心した表情になった。何気なく俺の近くまできて、俺を見て服をつまむ。俺の目線は喜緑さんに固定されている。

「このプログラムにはプロテクトが掛けられています。プログラムの改鼠には鍵が必要です」
 キーか。いづれにせよキーは探し出さないといけないのか。
「期限は明日までになっています。わたしはプログラムの改鼠する準備をしますので、明日までにキーを見つけてここに来てください」
 喜緑さんはそう言うと、ついには笑みを崩すことなく去っていってしまった。

「鍵、か」



 文芸部室をでた後、長門の部屋へ行った。もう授業なんて受ける気がしなかった。
 鍵には心当たりがあった。SOS団のメンバー全員集めれば何とかなる気がする。それか、長門が俺に託した3枚のしおり。
 明日学校へ行く前に家からしおりを全部持っていこう。ハルヒには必ず部室へ来てもらわなければならない。朝比奈さんも。

 道が見えたことで俺の心はだいぶ楽になった。緊張が解けたのが伝わったのか、長門も心なしか安らいで見える。












 翌日。俺は長門と共に文芸部室にいる。しおりも全て持ってきた。

 しおりをパソコンの上に置いても、振り回しても、何してもパソコンは起動しない。焦りながらも試行錯誤を繰り返すが何も起こらない。
「これじゃあなかったのか」
 しおりは鍵ではなかった。ならばSOS団のメンバーが鍵だろう。あのときがそうだったように。
 ハルヒと朝比奈さん、ついでに古泉ももうすぐくるだろう。俺には鍵がSOS団員である自信があった。でも…
 でも、もし違ったら。この長門は存在していられるかもしれないが、俺の知っている宇宙人の長門は…

 やがて古泉が朝比奈さんと来て、そのあとにハルヒが来た。パソコンは何も反応しない。焦る俺を不審な目で見てくる何も知らないハルヒ。
「あんた最近変よ」

 ハルヒの言葉も頭には入ってこない。SOS団が鍵じゃあなかったのか。どうすりゃいいんだ。
 

 
「あなたと別れて、わたしはわたしでは無くなるほどの悲しさを感じた。あなたと再び出会えてわたしはわたしに戻れた。もう、一人は…」 

 昨晩の長門のセリフが頭によぎる。
 あきらめも手伝って、長門がこの長門に固定されてしまった世界が脳内をくるくると回る。

 何故だ。長門は何故こんなプログラムを設置した。
 長門の真意はどこに。俺はどうすればいいんだ。

 何かしなければと思い、鞄を漁る。当然何もでてくるはずはない。

 のだが…
「これは…」

 白紙の入部届け。あの世界で俺がこの長門に付き返したもの。
「なんでこれが鞄に?」



 ピポっ



 パソコンが起動する。BIOSの画面を飛ばしてカーソルが点滅している。

 これが鍵だったのか。なぜこの用紙を発見できなかったのかを悔やむ。が、即座に「間に合ってよかったんだからいいだろう」と思う。

 パソコンの画面を目で追う。



  YUKI.N>残り時間3H20M



 違うのか。だが、この用紙を出したタイミングでパソコンが起動した。それも、残り時間のキリも良くないのに、だ。
「古泉、ペンを貸してくれ」

 奪うようにペンを手にし、用紙に氏名と学籍番号を書き込む。


 ピポっ






  YUKI.N>あなたは解答を見つけた。



  YUKI.N>あなたは今のわたしと、過去のわたしを選択することができる。



  YUKI.N>あなたが今のわたしを選択する場合 Y を



  YUKI.N>過去のわたしを選択する場合 N を







「遅くなりました」

 ちょうどいいタイミングですよ、喜緑さん。

 朝比奈さんで遊んでいたらしいハルヒも、ハルヒに遊ばれていた朝比奈さんも驚いた顔で喜緑さんを見ている。古泉はいつもどおり余裕の表情だ。

 ハルヒがアクションを起こす前に、俺は古泉にアイコンタクトを送る。
「涼宮さん、お話があるのですが」
 古泉は俺のほうをチラチラと目配せをしながらハルヒにごそごそとつぶやいている。

「キョン!よくわかんないけどあとで説明しなさいよっ」
 古泉が何を言ったのかは知らないが、ハルヒは少し顔を紅潮させて部室から出て行った。古泉はその後に続いて朝比奈さんを連れて出て行く。
 古泉には心の中で賞賛の言葉を浴びせておく。こんな場面をハルヒに見せるわけにも行かないからな。

「ではお願いします」

 喜緑さんが微笑んで呪文のような言葉を紡ぐ。

「うおっ」
 ゲームの中に入り込んだように景色が3Dに変わっていく。2〜3秒の事だろうか、一瞬目を瞑って再びあけた時には元に戻っていた。ドア付近に立つ、宇宙人であろう長門がいることを除いて。

「やっと会えたな」

「どうして」

 宇宙人の長門と人間の長門が同時に言う。

「喜緑さんに、お前の作ったプログラムを改鼠してもらったんだ」

 と、見ると喜緑さんはすでにいなかった。








 俺と二人の長門の三人だけになった部室で、ぐるぐる回る激情にまみれてどんなセリフを言うべきか悩んでいた。
 そもそもこの激情は、激怒なのか憤慨なのか、激しい安堵なのか。俺の中のどの感情が高ぶったのかはわからない。安堵の感情も憤怒の感情も入り混じってなんとも言えないこの感情から脳裏を駆け巡るボキャブラリーの中からTPOにあった言葉を選んでいる。
 俺の目の前にいる宇宙人の長門は、叱られる子供のような表情で黙って俺の足元を見ている。もちろん俺にしかわからないであろうが。もう一人の長門は俺の後ろに隠れている。

「長門…」
 長門は何も言わない。俺が言葉を紡いでいくのを待っている。
「言いたいことはいっぱいある。でも、」
 ふと、長門は顔をあげる。
「どっちも消えなくてよかった」
 宇宙人の長門が出没して、安堵と共に様々な感情が湧き上がった。いろいろ考えた末に、最初に思ったことを素直に言った。
 長門は黙って俺の胸元辺りに視線を漂わせている。
「だけどな、何でどっちかが消えなければならない?他に方法はなかったのか?そもそも、何で俺に一言も言わないで」
 少し興奮気味に長門の肩を掴んで話す俺に、後ろに隠れていた長門が服を引っ張る感触で俺は止まる。
 そして後ろから、今にも泣きそうな声で言う。
「あなたは以前、こっちの世界を選択した。でも、彼女が知りたかったのは」
 俺は後ろにいる長門に視線を向けた。
「彼女が知りたかったのは、きっと、どっちのわたしを選ぶのか。あなたはこっちの『世界』を選んだけど、彼女を選んだわけではない」
 宇宙人の長門を見ても、なんの動きもない。あの世界の長門が続く。
「もし彼女が選ばれないなら、彼女は消えてしまいたいと考えた」
「そうなのか?」
 でも、なぜだと問うが返事はない。変わりにもう一人の長門が俺の服を掴んだまま言う。
「彼女を見た瞬間わたしは理解した。わたしと彼女は同じ。あなたが好きだから」

 一言も発していなかった長門が口を開く。
「あなたには何も話せなかった」
 少しの沈黙の後、言葉を捜していたであろう長門に代わってもう一人の長門が言う。
「それは、恋心」

 鈍感な俺にもわかりやすい表現ではあったと思う。だがこの雰囲気の中でそのことに関して言える言葉もない。
 落ち着いた心を取り戻した俺は何も言えることはない。






 それからの事を話そうと思う。
 宇宙人の長門もあの世界の長門も消えることなくこの世界にとどまることになった。長門は宇宙人の長門の妹として転入させることになった。この時期の無理な転校もきっと情報操作とやらで何とかしてしまうのだろう。

 この事件では何も知らされずに古泉に連れ去られたハルヒの激怒を受けた俺は、だいぶ頭を悩ませた挙句、『長門の妹転入サプライズパーティ』をしてハルヒを驚かせようとしたんだと言った。そしてその日のうちに古泉の助力もあってだいぶ前から企画してたようなイベント盛り沢山のパーティが開催された。
 鍋パーティではあったが。


 パーティの後、俺は宇宙人ではない方の長門と帰路を共にしている。会話自体はあまりないが、人生でもトップ3に入るであろう安らぐこの時間を過ごしていると、長門が口を開いた。
「わたしは、彼女に会うまでは消えたくないと思っていた」
 彼女とは宇宙人の長門のことだろう。
「しかし、彼女を見た瞬間に、わたしは消えてもいいと思ってしまった」
 会話が途切れる。長門は少し間をおいてから続ける。
「あなたとの思い出をもらえたから。それは、本来はもらえるはずのなかったもの」

 長門はそう言った。それは、例え自分が消える結果になっても、俺と過ごした3日間には意味があったと言いいたいのだろう。
 いずれ死ぬことがわかっているのに子孫を作るのは、生きている間に起こる幸せのためだという言葉を思い出した。

「結果はわたしも彼女も共存できることにはなったけど、どんな結果になっていても彼女には感謝していた」



 一人の長門と話していて、二人の長門の真意を聞いた気がした。
 長門は、その話題は終わったとばかりに前を向いて歩き始めた。あたりはすっかり夜だ。きれいな星空はあの世界でも一緒だったな。



「なぁ、長門」
「なに?」
「お前は明日、何ていう名前で転校してくるんだ?やっぱり長門のクラスか?」

「それは、秘密」